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陰隲録(いんしつろく)のお話。運命や運勢を変えるには。

『陰騭録』(いんしつろく)は、中国明代の人で袁了凡(えん りょうぼん)が著した書籍です。善書の一種であり自己の宿命観を乗り越えて、自分から運命を創造してゆくことを悟った体験を書き記した中国の古典書物です。二宮金次郎が読んでいる書物はこの陰騭録です。

  • 運命論者 人生は決まっているのか
  • 運命通りに生きることが全てではない
目次

人生は決まってる?

 この「陰隲録」作者及び主人公は袁了凡(えんのりょうぼん)という明の時代の人ですが、 小さいころから医者になるよう母親に強く勧められ勉強していたそうです。そんなある時、袁了凡は慈雲寺というところで孔という仙人みたいな老人に出会いました。

「私は易の大家であるから、そなた一生の運命をみてあげよう」
そうういうと老人は袁了凡に対し易を駆使して様々なことを言い当て、 家族構成や過去から現在に至るまでの身の回りに起きていること、 現在持っている悩みや近い将来受験する試験結果の順位もズバリ当てていったのです。
 そしてそれからというものはこの老人から医者よりも官使が向いていると勧められ、袁了凡は老人に母親を説得してもらい、医者の道を断念し官使の道を歩むようになっていったのです。その後も試験の合格時期や成績順位、官使になった時の給料や出世時期と昇給額、結婚する時期や子供ができないこと、53歳で死ぬということなど、未来をきめ細かく占ってもらい、全てがこの孔老人の占い通りに人生が進んでいきました。そしていつの間にか自分の人生は決まっている…と達観するようになっていったのです。

積善の家には必ず余慶あり

 そんな袁了凡が棲霞寺という所で座禅を組んでいるときのこと。雲谷禅師が無心で座禅している袁了凡を尋ねてきました。

雲谷禅師

そなたは何処で修行なされたのですか?
何日も雑念が湧き上がらず無心に座っていることができるとは並大抵の修行をした方ではなかろう…

袁了凡

私は特別な修行はしておりません。
ただ以前、私の人生はあらかじめ決まっていると気付かせていただきました。それからは迷いや悩みがなくなり、こうして雑念を出す事なく無心で居られるのです。

雲谷禅師

そうか!(高笑)

雲谷禅師

それでは何のために生きているのか、分からないではないか?

 雲谷禅師は高らかと笑い、このように袁了凡を怒鳴り蹴散らしたのです。それからというものは雲谷禅師は袁了凡に対して生きるうえで大切な事柄を諭したそうです。

雲谷禅師

確かに人には運命や運勢というものがある。
しかしその運命といえども、己の意志で変えていくこともできる。
善き事を想い、善き事を為していけばいずれは変わっていくもの。
「積善の家には必ず余慶あり」
「不善の家には必ず余殃あり」 ということ。

 また雲谷禅師は次のようにも申し上げたそうです

雲谷禅師

人は善悪の行いによってその幸か不幸の報いを受けるものなんじゃよ。

 今の自分は過去の自分が積み上げてきた結果。悪いことを重ねれば未来はどんどん悪くなってくる。善い事を重ねれば未来は明るくなってくるものなんだ、だから人生にただ流されるのではなく自分からより良い未来を作っていくことに人間が生きる意味があると、雲谷禅師は諭したのです。

善因善果と悪因悪果

 仏教用語に善因善果、悪因悪果という言葉があります。今の環境は過去の自分が作り上げたものだというものです。全てはやまびこの如く自分に戻ってくる因果応報の考えです。諭された袁了凡は雲谷禅師に教えられたように日常生活の中で行った善い事悪い事をチェックし、善因を徹底的に作るようにしたそうです。
 そのうちに孔老人に受からないといわれた昇進試験に合格し、できないといわれていた子供に恵まれ、徐々に占いの結果から外れるようになっていったのです。結局、53歳といわれた寿命も延び74歳まで生きたのでした。こうして袁了凡は生まれ持った命運を乗り越え、新しい運命を作り上げたのです。運命といえども不動のものではなく、自分で努力すれば変えていけるものなのです。

運命通りに生きる必要もない

 人間には自らの運命を改善できる努力とう無敵な武器があります。もっと別な言い方をすれば向上心であり、この向上心が失われてしまえば人は生きている価値などないといえるでしょう。人間と他の動物とを分けるものは、この向上心という崇高な精神をもっているか否かです。
 この高い精神性、向上心を持てる生物は私たち人間しか存在しません。またそれらが人にとって生まれてきた意味であり、生きる意味でもあります。これらをも踏まえて占い師は占いを扱ってほしいものです。

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